八王子FM「辰巳琢郎の一緒に飲まない?」2019年4月24日放送分

ゲスト:太田直幸さん(三次ワイナリー醸造長)
前回は若き太田さんがニュージーランドに渡るまでと現地での生活のお話でした。2回目の今回は太田さんが15年間過ごしたニュージーランドに別れを告げ日本に帰る決断をしたわけ、妙縁で出会った三次ワイナリーとのエピソードなど、三次ワイナリー醸造長になるまでのストーリーをお届けします。前回同様、頭のチャンネルを関西弁モードに切り替えてお楽しみ下さい。

辰巳:こんばんは、辰巳琢郎です。今回も前回に引き続きまして
広島の三次ワイナリー醸造長、太田直幸さんをお迎えしています。

辰巳・太田:よろしくお願いします!

辰巳:今日はスタジオにたくさん人も集まって。人気もんですねーやっぱり。

太田:いやぁ、辰巳さんは背中にしてるからいいですけど、全員こっち向いてるんでちょっとドキドキしてるんですけど(笑)

辰巳:いろんなワイナリーに行っていろんな方にお会いするんですけど、話も非常にわかりやすいし面白いし。まずそういうことで第1回のゲストにお願いした次第です。

太田:ありがとうございます!

辰巳:前回はミュージシャンを志してたけど、すっかり諦めて28歳でニュージーランドに渡ったという話を伺いましたけど、今回はニュージーランドからどうして日本に戻ってきたか?その辺の話を伺っていければと思っておりますが。
15年間ニュージーランドにいて途中からワイナリーに入って、大学入ってワインのことも勉強して、、、(現地で)ワイナリーに入って就職したんですか?

太田:まぁ、そうですね。契約とか正社員とかではなくて、フルタイムかパートタイムか。

辰巳:最初はパートタイムで?

太田:いえ、フルタイムで。朝畑で何時から何時までっていうような。朝から夕方までみっちり仕事していうような感じでしたので。

辰巳:向こうではどのレベルまでワイン造りを任されてたんですか?

太田:ブドウ栽培がメインやったんですよ。醸造の方ももちろん勉強もするし手伝うんですけど、大きなワイナリーの端から端まで任されるようなポジションではなかったです。

辰巳:いろんなワインメーカーに話を聞きますと、人がやる(技術的なこと)醸造も大事やけど、やっぱりかなりの部分は畑での仕事にある、ブドウ栽培が一番大事だという言い方をされる方が多いんですけども。そういう意味では栽培を任されていたということは頼りにされてたってことですよね?

太田:まぁそういうことですよね。

辰巳:それはやっぱり(勤勉な)日本人としてのことなのか、あるいは太田さんのこだわりとか清さとか?どの辺が買われたと思います?

太田:いやぁ、そこはわかんないんですよね、自分では。できること、できないこともあるし。だいたいやることって毎年同じなんですよね、作業ってのは。だけど’的確な判断をする’のはすごく大事、畑で病気をまず出さないのがすごく大事で。で、出た時の処置をまずどうするかって判断が管理者としての腕の見せ所なんです。

辰巳:例えば病気を出させないって具体的にはどんなことをする?

太田:クライストチャーチ(太田さんが住み、働いていた都市)では
前半はウドンコ病、後半になってくると灰色カビ病がよくでるんです。(それらの病気に)ならせないための防除と言いますか、まぁ簡単にいうと農薬の散布の方法ですね。むやみやたらにただ撒けばいいってもんじゃなく、的確に最小限度のものを撒くことがすごく重要なことでして。天候や気温の変動をしっかりと見て「あ、これはボチボチだな」とパッと移ってく(判断する)っていう。そのタイミングとかね。

辰巳:それはリンカーン大学で学んで?

太田:仕事しながら、周りの人に教えてもらいながらやってましたけど、論理的にきちっと理解するためには大学の勉強が役に立ちました。

辰巳:でもやっぱり’天性の勘’っていうのは大事なんでしょ?

太田:あると思いますよ。日本の農家さんなんかも大学にも行ってないし誰にも教わってないとか、もう文章にも言葉にもできないけど、得ている能力ってのは必ずあるじゃないですか。それってすごいなぁと思うんですけど、そういうのはセンスだったり経験だったりするもんですよね。

辰巳:それって「この仕事は自分に向いてるなー、これはオレの仕事やなー」と、どういう段階で思われるんでしょうね?

太田:これはですねー、まだ思ってないんですよね(笑)いや、ホントに。仕方なくって言ったら怒られるな、違うな。なんとなくこの道を極めたいなと思って入って今もやってるんですけど、ぜんぜん先が見えないっていうか。どんな世界でもそうなんでしょうけど、高みに登れないっていう感覚なんですよね。やればやるほどわからないことが増えていく。まだそういうイメージでいるんですけど。

辰巳:自然との対決、どうやって共存していくかって問題ですからね。

太田:農業自体も決して甘いもんじゃないし、醸造もやっぱりそうだと思うんですよね。ワインってのはナマモノというか、醸造して瓶詰めした後も(瓶の中で)変化していく、そういうものですから。生鮮野菜を扱うような管理をしないといけないんですけど、なかなか一般の人にそこまで求めるのは難しいし、理解のある人も少ないですよね、それを訴えかけないと。本当の意味で消費者が口にするまで自分が責任持てるかっていうと、なかなか難しいじゃないですか?そういうこと考えてると’きっちりしぃ(きっちりした性格)’なんで、ちゃんとしたものを届けないとヤダっていう風になるんですよ。だけど、自分の力ではどうすることもできない。どっかのスーパーマーケットやお店とか、管理の悪いとこで半年間置いてあったワインかもわからないものをお客さんが買って帰るかもしれないって思うと、なんかもう
「ぃぃぃ!」(とてもイライラしてます)なるんですよね。
「ちゃんとしてっ!」って思うんですけど(自分では)ちゃんとできないジレンマがずっとあって。100%自分が満足するもんできたからっと言って、それが100%のまんま消費者に届かないかもしれない、というリスクを考えると、なんかねぇ、こんなことでいいのかなっという気持ちもすごくあるんです。
話を元に戻すと、自分が(ワイン造りに)向いてるかどうかっていうことで考えると、もしかして向いてないかもしれない、正直言って。最後まできっちり自分で管理できないんであれば。

辰巳:なるほどね、その考え方はもちろんわかりますけど。でもそれなりにワイナリーの方からきちんと評価されて、毎年契約されて仕事があったわけでしょ?
ちなみにどれくらい(報酬)貰えるんですか、向こうで働くと?

太田:それは会社によってじゃないですか?

辰巳:ま、ざっとでいいんで。

太田:僕は最後の方は特別な待遇をしてもらってて、日本の会社が出資した畑を管理してたので、そこが持ってる畑の敷地内の家を貸してもらったり、そこに住んで光熱費を出してもらったりしてたんですけど。日本でもそうでしょうけど、ニュージーランドの法律では会社が出してあげるっていってもそれは収入の一部なんで、してもらえばしてもらうほど税金が高くなってくるので。いくらかですか?最初に三次に入った時の給料の倍近くありました(笑)
今はいろいろ考えてくれていて、毎年毎年できる範囲での昇給は考えてくれてる。でもワインやる人ってお金じゃないですよね?

辰巳:そりゃ思いますよ。

太田:お金持ちになりたきゃ多分ぜんぜん違う仕事選んでたと思うんですよ。

辰巳:でもそういう待遇を捨てて日本に帰りたいなと思ったわけでしょ?
ここからはワイン飲みながら聞きましょ。

ワイン登場


TOMOEシャルドネ 2017

太田:これはTOMOEシリーズの中でも最高峰のワインです。
じゃあ注ぎます。

ワインを注ぐいい音

辰巳:いやぁ~旨そうですねぇ~。これは本当によくできたワインだと思います。
では乾杯しましょう!

辰巳・太田:乾杯!!!

辰巳:んー、んー、んー(3回も唸る)

太田:どうでしょうか?

辰巳:ほんとにね、最初飲んだ時にも思いましたけど、ブラインドで飲んだら質のいいブルゴーニュのね、1級か特級ぐらいのバランスの取れた白ワインかと思います。
シャルドネ100%、自社畑で?

太田:(この新月の)専用圃場と言ってる自社畑のような畑なんですけどね。

辰巳:これ、一文字短梢(ブドウの仕立て方の一種)なんですか?
垣根じゃないんですよね?

太田:凝縮感のあるブドウを採るために収量制限をきちっとして、
普通の畑の半分ぐらいの量しかないんです。一反あたりよく採れて700kgくらいです。

辰巳:ま、ムチャムチャ少ないってわけじゃないけど、かなり少ないですよね。

太田:大体棚で普通に造ったら2tとか採れるんですけど、そこそこ品質を保とうとすると1,2-1,3tが平均みたいです。それを考えると半分以下です。

辰巳;ニュージーランドでもシャルドネは造ってました?

太田:造ってました。

辰巳:ソーヴィニョン・ブランとかピノ・ノワール、メルローとかと一緒に?

太田:そうです。

辰巳:どうですか、このシャルドネというブドウは?

太田:すごく僕は好きなんですね。いろんな造り方が楽しめるというか、造り手からすれば面白いブドウかなぁと思います。変に個性がないというか、自己主張が少ないので何色にも染まってくれるような。

辰巳:僕はよく’箱入り娘’という言い方を昔はしたことあるんですけどね(笑)。嫁ぎ先(造り手や土地)によって変わってくる、そんなブドウだと思うんですけどね。

太田:世界でいちばん多く植えられてるワインの品種じゃないですかね。

辰巳:そうですよね、実際の数字はわかりませんが。でも各国で造られてるブドウですよね。

太田:三次でも30年前からある。ワイナリーができるちょっと前から植えられているという樹です。

辰巳:ちょっと話を戻しますが。15年間のニュージーランドのそこそこ恵まれた生活に見切りをつけて日本に戻られた、その辺りを(聞かせてください)。

太田:もう流石に英語もできた頃、向こう(ニュージーランド)で日本人の奥さんもらったんですね。結婚して娘が2人生まれたんですけども、それはそれですごく良かったし、日本人から見ると羨ましい生活ですよね、綺麗な景色の中で生活するわけですから。
ですけど、日本人としてのアイデンティティーみたいなものが私にも当然あるんですけど、うちの娘ら見た時に「ナニジンとして生まれたのかな」っていう疑問がふと湧いたんです。幼稚園とか学校は普通の(地元の)スクールですから日本人なんて一人もいなくて。これが
10歳、15歳、20歳になった時に「自分自身がなんなのか?」って悩むんじゃないかっていう気がすごくしたんです。周りにそういう子たちが何人かいたの見てたので、自分たちの子もそうなってしまうんじゃないかと。私は日本人で妻も日本人なので’日本人として育てたい’でも、子供たちは日本の文化のことほとんど知らない、童謡も歌えない。おじいちゃんとおばあちゃんと電話で話しても向こうがなに言ってるかほとんどわかんないんですよ。娘たちも英語混じりで喋るもんだから向こうもメチャクチャですよね。それがお父さんお母さん(太田さん夫妻)には通じるんですけど、英語も何もわからない人から見ると「何喋ってるのかようわからない」。これはイカンと思って日本にいっかい(短期で)帰って小学校に入れたんですよ。そうすると、娘が「(日本の)同年代の子がめっちゃ日本語喋ってる(驚)」と(笑)。たかだか小学校入ったばっかりの頃に「大人みたいな日本語喋ってる」ってショック受けたんですよ。

辰巳:それは子供さんたちがいくつの時に?

太田:上の子が1年生か2年生の頃。よその子を見て「普通の日本人の子供はこんなに(日本語)喋れるんだー」ってことに気づいて(だから)うちの子はぜんぜんクラスに馴染めないんですよ。何を友達が喋ってるのかわからない、授業も先生の言ってることが全くわからない。これはいかんなってことで色々考えてニュージーランド戻ってからでも週に一回日本語の学校に行ってたんですけど、週に一回くらいじゃやっぱりぜんぜん伸びないんですよね。これはやっぱり良くないなと思って日本に帰る決断をしました。
帰るにあたって私は大阪出身妻は広島なんで、西の方に住もうと。ワイナリー多いのは東・北なのは知ってるんですけど、やっぱり
(太田夫妻の)親もどんどん高齢化してきますし、なんかあった時にすぐに行ける場所がいいよねってことで。別に広島じゃなくてもよかったんです、ワイナリーの数も少ないですしね。これは縁のもんやと思うんですけど、僕が一時日本に帰ったタイミングで三次ワイナリーの醸造担当者が辞めたんですよ。(前任者は)醸造勉強した人じゃなくて、ワイナリーに入ってから少しづつコンサルタントに教わりながらやってた人でした。

辰巳:三次ワイナリーは三次市とJAでしたっけね、まぁ第三セクターみたいな形で始められてて、社長は三次市長だったと思うんですけど
今もそうですか?

太田:いや、前回はJAから来た人、今は三次市役所から来た人ですね。

辰巳:そういう意味では地元に根ざした、わりと地味なワイナリーというイメージがありますけど。でもかなりお金はあってしっかりとした建物だし、設備もいい。でもそんなに飛び抜けたワインが以前はあんまりなかったんですよね。まぁ美味しいワインもあるけど、お土産用のワインも造るしで、いまひとつ特徴がなかったんだけど、ここ数年ガーーーっと「三次ワインってえぇなー」っていう声が増えて来た。それがおそらくっていうか(笑)太田さんの功績だと思うんですが。

太田:そう言っていただけるとありがたいですけど。ワインてのは特殊なお酒だと僕は思うんですけど、ただ酔っ払いたいだけのもんじゃなくて、香り楽しんでもらったり、色楽しんでもらったり。そういう繊細なことをいろいろ考えながら造るお酒なんです。おそらく私が来る以前はまったくみて(考えて)なくて、辰巳さんのおっしゃる通り’土産物を造ればいいんだ’という発想だったと思うんですよ。ただ、2013年の始めに私が帰国してここに伺った時に、当時の社長が正直に「今まではシロウトがワインを造ってきた。あの手この手でやったけど、ひとつもいいワインができない」とおっしゃったんですよ。こんなことをね、初対面の僕に言うなんて、この人スゴイ人か頭のおかしい人かと思ったらまぁスゴイ人だったんですけどね(笑)。
で「全部アンタに任せる」と。僕が出した条件は「全部好きにさせてくれ。今までこうしてきたからこうしてくれとは絶対言わんといて。だったらやります」。社長は「そうしてくれ」となった。
最近「なんであの時僕を信用してくれたんですか」って聞いたら「アンタからすごいオーラが出てた」(大笑)。オーラは一体なんやったんや!?(笑)で、「今もうオーラないですか?」って聞いたらそれには答えなかった(笑)。けど向こうは(社長は)僕は絶対来てくれるっていう確信があったみたいですよ。人の出会いって、縁ってそういうことなのかなぁってすごく感じてるんですよ。

辰巳:当時は(醸造の)募集?それとも人づてがあった?

太田:いや、何もない。僕が日本に帰るってなった時に「じゃ、こことこことここに」って連絡したんですよ。「こういう人間ですけどどうですか?」って。

辰巳:大阪も神戸も岡山も・・・

太田:そうです。実際に会いに行ったところも何社かあるんですけどどこもなんかしっくりこない。もうワイン造りから離れた方がいいのかとかちょっと弱気になったんですけど。
結局何も決まらないまま帰国して妻の実家(広島)に2週間いた時にちょうど三次から連絡あったんですよ。メール送ってたのはそれより3ヶ月も4ヶ月も前ですよ。その時まで無視されてたんですよ、唯一僕を無視したワイナリー(笑)。

辰巳:他は一応お断りの返信は来はってたけど、何にも言うて来へんのは三次だけだった(笑)。

太田:「今募集してません」とか「ちっちゃいとこなんで」とかいろいろ(お断りの返事は)あったんですよ。唯一返信なかったのが三次。

辰巳:実は内輪ではいろいろ言うてたんですよ、たくさん(社員)いますからね(←辰巳さんの推測です)

太田:じゃ、結果出たのが僕がちょうど帰った時だったんですかね?
(それにしても)「面白いなー、このタイミングで普通来るか?」と。

辰巳・太田:人生そんなもんですよねー

太田:で、行ったら件の社長が出て来てさっきの話になったんですけど、もしかしたら違うかもしれないし「1ヶ月か2ヶ月いてアカンかったら逃げたろ」おもて(笑)。それこそニュージーランド行った時に「半年で帰ったろ」おもて15年いたみたいに、今では三次にいて6年越えました(笑)。

辰巳:(三次に)入った時はニュージーランドの半分くらいの待遇やったんでしょ?(笑)でもどうですか、やってて面白かったんですか?思った通りやらしてもらえました?

太田:はい、でも当初は農家さんとも喧嘩になるしワイナリーの当時の上司とも言い合いになったりとか。そもそもなんのためにこの会社はワイン造ってるのかってのを教えるところからまず入るっていうね、もうすごい労力が要ったんですよ。どういう風にすればいいワインができるのか?どういう気持ちでワイン扱わなきゃいけないのか?そっからのスタートですから。ある意味自分の好きなようにはできたんですけど、人間ってなかなか理解してくれるまで時間がかかるので、一回話したくらいでハイハイとはわかってくれない。そういうジレンマもすごくあって。そんなこんなで6年経って、今はこういうワインを造れてみなさんに評価をいただいてる・・・。

辰巳:まだね、日本のワイン状況は東の優勢でね、山梨、長野、北海道の三大地区、山形、新潟とか。西日本はまだちょっと遅れてる感じがあるんですけども、これから三次ワイナリーもっともっと出て来ると思いますし、出て来てほしいですし、大いに期待しております。どんどんいいワイン造ってくださいね。

太田:ありがとうございます、頑張ります!

*三次ワイナリー(広島県三次市)
1991年設立
1994年、三次市、JA三次、ブドウ生産者と観光協会所属の企業が資金を出し合って稼働
2007年から発売された三次産100%のブドウを使った
TOMOEシリーズは三次ワイナリーのフラッグシップとなった。
施設内には醸造所のほかバーベキューガーデン、カフェ、ワインショップなどもある観光施設になっている

>> miyoshi-winery.co.jp

News Data

八王子FM「辰巳琢郎の一緒に飲まない?」

2019年4月4日放送分

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